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『小田原市学校検尿卒後検診「27年間のまとめ」』

~石井敏和先生が残された足跡を辿って~

ふじわら小児科 藤原芳人

 

『小田原市学校検尿卒後検診「27年間のまとめ」』

 昭和39年に、当時としては十分に開発されていなかった学校での集団検尿について、神奈川県ではその実施方法、判定の仕方、そして事後管理の方法を検討するために、小田原市教育委員会、小田原医師会そして神奈川県予防医学協会の三者が協力して石井敏和先生が校医をされていた小田原市立早川小学校で実験的に開始された。その後、小田原市では昭和44年から市内全域において公費による学校検尿が行われた。これは昭和48年に学校保健法により政令化されるより4年も前である。

 そして学校集団検尿の精度管理もかねて判定委員会が昭和47年(1972)から設置された。判定委員会では学校生活管理指導表(昭和52年)に従って判定がなされ、それぞれに日常生活上の管理を受けるよう指導してきた。年2回(6ヵ月毎)開催する判定委員会で、判定、管理指導区分の決定を行い、管理を全て公費で行っている。ここで対象者が中学校卒業と同時に、市教育委員会の管理を離れるため、その後の経過を知り、卒業後も正しい生活指導を行うと同時に、学校及び家庭での管理区分による生活規正が実践されているのか否かなどが懸案事項であった。

 学校検尿で発見された無自覚,無症侯性の検尿異常者の長期経過を追跡すべく、小田原市と医師会の協力を得て神奈川県学校腎疾患管理研究会の事業として昭和52年度(1977年)から石井敏和先生を代表として小田原市学校検尿卒後検診(正式には「小田原市における腎疾患管理で卒後等により管理解除になった者に対する追跡調査」)が開始された。

 対象者になった多くは「経過観察者」であり、通院しておらず、以後の管理を継続して上で彼らに検診機会を提供することにより、長期予後の調査研究をする事となった。

 われわれ医師は患者一人一人から医学的な所見ばかりではなく、個々の事例からそれぞれの病に対する心配や不安に対する情念など、多くの事を学ぶものがあり、マススクリーニングでは個々の事例に対して入念な心使いができないものである。しかし石井敏和先生はマススクリーニングにおいても対象になる個々の事例の意志を尊重したかたちで卒業後の長期観察を試みられた。確かに、年1回ではあるものの多くの対象者が検診会場に参集した。中には毎年のように病院への受診勧告をしても通院されず困惑した事例もあったが、この検診機会を頼りにされている様子もうかがえた。

 当初の目的は長期予後の調査もその一つであったが、学究的な成果を提示することは非常に困難であった。特に対象者は任意で来場し、毎年、自主性に任せていた。経過観察期間もそれぞれまちまちであった。そして経過途中で生活管理基準の判定基準の変更、さらに卒業時の診断名と本事業での診断名の基準が統一されたものではないなどの障壁があった。通院していた事例でも薬物治療の有無なども様々であった。

 その代わりに大事な事象を思い知らされた気がする。通院していない事例はもとより、病院の腎臓専門外来では十分に説明を受けられないなどで、尿に異常所見を持つ事例が将来の不安を抱き、来場した。対応する我々はかしこまって様子を聞き、少しでも気持ちが落ち着く様にと配慮した。ナンバリングされた被検者と尿検査等の数値や記号に従って判断するマススクリーニングでは到底、不可能な役割を担っていたと認識する。

 石井敏和先生が平成8年1月に逝去されたが、本事業は平成15年度(平成16年3月)まで継続した。27年間の長きに亘り行ったことで当初の目的である長期予後の調査研究について、一定の結論も得られたという事で筆者(藤原芳人)が責任者として纏めることになった。石井先生のご功績としてここに全貌を記述し、神奈川県腎疾患管理研究会の貴重な資料財産として残すべく記念誌として発刊に至った。

 小田原市学校腎臓検診の立ち上げと判定委員会の設置と指導、そしてその卒後検診に小児腎臓病学専門医として当初からこれらの事業に関わられた北里大学名誉教授の酒井糾先生や卒後検診に長くたずさわれた竹中道子先生他、多くの方々参画がなければ本書は完成をみることはなかった。

掲載日時:2012/04/18